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僕のクルマ履歴 1

2011年03月01日 08:00

父親の乗っていたクルマに寄せるノスタルジックな思い出から、いよいよ自分でクルマを運転する話に入ります。

青春グラフティー
学生時代に免許をとった後。あの当時の国産車はほとんど乗った!と言っても過言ではないくらいです。友人がクルマで来た!と聞けば、とにかく免許証を持って、首都高を飛ばす!青山通り、六本木、渋谷あたりを流す。ちょっと遠出なら湘南海岸。と言うのがお約束です。

青年にとってクルマは無くてはならないもので、他に代えがたい神々しい生き物のようなものでした。でも、その神様はとても危険な存在でもあります。

高校時代にさかのぼります。まだ軽免許制度があった時代の話。仲のいい友人が高校の卒業を控え、スバル360カスタムに乗り箱根にドライブ谷から転落し3人死亡、車内からウイスキーやタバコがたくさん出てきて・・・切なかったです。同じ時期、同じ場所に僕は違う仲間と箱根の強羅にスケートを楽しんでいました。青春時代の痛ましくも、ほろ苦い思いでもあります。映画「アメリカン・グラフィティ」を見ると、愛惜の感情が沸き起こるのは団塊世代の特性でしょうね。

手当たり次第のクルマ飢餓状態
学生時代は、やんちゃな3番目の兄が乗ってくるスカイライン2000GT(54B)は、鈴鹿で勝つために急遽1500ccのボディーを2000ccエンジンが載る様にフロントを延長したことで有名です。

NISSAN SKYLINE S54 - 1965
Photo by MIKI Yoshihito

プリンスの誇るOHCエンジンは、ウエーバー気化器の助けもあって、ガルルルル・・・って感じで、暴力的ともいえる加速力だったことを今でも身体が覚えています。実は今でも欲しい車の一台で、所さんの54Bを見る度に「いいなぁー」と思います。

あとはハコスカ、トヨタMK2 GSSはじっくり乗りました。チョイ乗りは数知れず、友達のべレットGT、410SSに始まり、クラウン、コロナ、カローラスプリンター、パブリカ、セドリック、ローレル、ブルーバード、サニークーペ、カペラ、ファミリアクーペ、フローリアン、ホンダ1300、フロンテ、ジムにー、N3、スバル、ミニカ、ミセット・・・キリがないのでこの辺で・・・(苦笑)

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アメリカ車のシボレーコルベアなんてクルマもありました。走行安全性に問題ありとマスコミに騒がれ早晩姿を消すことになりますが、欧州車の香りがあるエレガントなデザインは大好きでした。

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あぁー、何でもいい!とにかく自分たちを乗せて、どこかへ運んでくれることが嬉しかった!友人とお金を出し合いガソリン代を工面し、コーラとハイライトがあれば空きっ腹は何とかなった。エンジンの唸りとタイヤの叫び、オイルの匂い・・・心は桃源郷に飛びましたね。

父親のクルマが、とうとう国産車になったのもこの時代です。セドリックは、社用が終わった後、夜引き出す快適な広々デートカーです(笑)余談ですが、今、「48PRODUCT」で頑張っているJrは、一時僕が所有していたメルセデスのSLKをデートカーに使ったようです(笑)。なんと贅沢な!

つづく

閑談・クルマ話

2011年02月28日 08:00

僕がスズキをやめて入った会社がSP(セールスプロモーション)の企画会社。又そこを、ある事情・・・ウーン、高速道路でトラックにぶつけられて、3ヶ月入院。現場復帰したときには、会社の状況が変わっていて、自然に退職(爆笑)。こんなこともありました。それが31歳の初秋のことです。
さあ、それからもっと波乱万丈の、今に続くデザイナー人生劇場が始まります。が、その前に、飽きてきたでしょうから、ちょっと一休み、クルマの話をします。

シボレー210の思い出
フリートラインが僕のデザインー魂に火を点す要因でしたが、家にはその後、FLが交通事故で壊れたことをきっかけに、シボレーの210(ツーテン)53年製がやってきます。

1953 Chevrolet Bel Air 4-Door Sedan, Revised Illustration
Photo by aldenjewell

お洒落なボディーラインは、アメリカ黄金の50年代を代表する「ベルエアシリーズ」で有名です。これは完全戦後設計の車ですから断然カッコよくなったし、あらゆるメカに戦争の技術が投入され、東京都心部をアメリカ車で埋め尽くす時代の代表的車種でした。
国産車がブルルン、ブルルンと、あえぐように走るのに対して、シューっと、ハイブリッド車のように、エレガントな音で、でかいボディーを軽々走らせるんです。

1953 Chevrolet 210 2 Door Sedan with 54 Grill (Custom) '2XSL370' 4
Photo by jacksnell

狭い田舎の街中を歩く人を追い越すと、びっくりした顔で、「もっとエンジンの音を出して走れ!馬鹿!」なんて、妙なクレームがつけられたコトもありました(笑)。電気自動車が、ごみの収集車のようにピロンポロンと音を出して走らせよう!なんて、笑い話ではないことが過去にあったという事実です。
明治の時代には岡蒸気の前を「今から蒸気機関車が通るぞ!」って、大声でお触れを出す人が駆けて来るなんて、笑い話ではないのですね。

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外観の最たる特徴は、低くなったエンジン設計のおかげで、ぐっとボディーが低くワイドになり、フロントウインドウにセンターピラーがなくなったことです。初代クラウンを見るとよく分かりますね。初代には未だアポロウインカーなど付いていて、今はそれを自慢にしていますが、当時は時代遅れの代名詞でした。

国産車にメタリック塗装は未だ無い時代に、ブルーメタリックの神々しいボディー!なんと塗装修理のために、新潟から埼玉は与野のいすゞ自動車まで陸送。それも三国峠(現在の国道17号)に、大型乗用車が通過できる道幅がない!そのため、長岡から長野経由で迂回して与野に行くという始末。1ヶ月くらいのドッグ入りだったと思います。

運転免許はオマケ!?
1954 CHEVROLET 210
新潟ナンバーがついた貴重な写真

このクルマには運転できない父親に代わって、専属の運転手さんがいて、この方が又律儀この上ない方でした。重量2t規制のある田舎の土橋を渡るとき、

「社長申し訳ありませんが、一旦下りてください」

と、二コリともしないで巨漢の父親に言い、静々とクルマで土橋を渡り、渡った向こう側でドアを開いてきちんと待っている。いでたちはと言うとハンチングにホームスパンのニッカポッカです・・・。父親は、ボルサリーノを被り、大きな身体をダブルのスーツで包み、普段牛車しか渡らない春の小川にかかる土橋を、のんびりゆったり歩いて行く、僕はその後からチョコマカくっついて行く。今から50年前の日本はそんな時代でした。父親は確か運転免許証を持っていたはずでした。後から聞いたら、「車を買ったら付いてきた」と、にやり笑っていましたが、真偽のほどは今もって家族の誰一人知りません。

Borsalinos
Photo by christophandre

僕が今から8年ほど前に銀座のトラヤ帽子店で、フェルトのボルサリーノを買ったのは、そんな父親の後姿に憧れていたからだと、今、合点がいきました。

「3×4」デザインプログラムの原点

2011年02月25日 08:00

ともかく、勉強になった時代でした。スズキでは、自分がデザインした商品の広告は、社内宣伝部が大手広告代理店に発注し、大手広告代理店が企画、敏腕営業マンがプレゼンに来ます。一旦宣伝部が預かった企画案に対し、担当デザイナーとしてまれに、「ここはデザインコンセプト上云々・・・だからこんな表現が・・・」とアドバイスをします。その意見を宣伝担当を通じ大手代理店の営業マンに伝えるのですが。隔靴掻痒ですね。おそらく「はい!分かりました。検討して修正案を持ってきます」と答え、浜松から東京に戻るのでしょう。

しかし、転職したら立場は一転!「はい!分かりました」と言って戻って来る代理店営業マンを、私がいた下請け制作会社の営業マンが待ちうけ、理由を深く理解できないまま、原稿をうやうやしく持ち帰ります。それを更に待っている企画室長(私)とスタッフに伝えるのです。営業が話をするスポンサー意向なんて、全く理解不能!とにかく「明日の夕方まで直せ!」ということだけは明確。

商品をデザインする側のデザイン部門で仕事をしていたのですから、スポンサーの意向はなんとなく想像は付くのですが、営業はちっともそんな想像力は無い。デザインマネージメントなんてひとかけらもないんですね(苦笑)。「分からないけど分かっている」。そんな後始末をする立場になったのですから大変でした。

確実に実感したことはひとつ!
モノをデザインする側とモノを売る側のデザインは、バラバラになっていては、いくらいい仕事をしていても、何の効果も無い!ここにはコンセプトを貫くマネージメントが必要なんだ!ということでした。


ともあれこの時代は、インダストリアルデザイナーがつくったモノを、いかに魅力価値を引きだし、訴求し、いかに多く売るか!のデザインに集中しました。
今、「3×4デザインプログラム?」で、「モノだけつくっても売れないから、市場デザインも同時にやりましょう!」という活動をしている原点がここにあります。


そのために、つい最近のブログで、ファンづくりのための「教導」「共鳴」「共創」の価値向上を図る、感動コミュニティマップをつくることを、段階的にお伝えしたわけです。もう一度読んでいただきたいと思います。

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今こうしてビジネスとデザインを語っていれるのは、この会社のおかげだと、心から感謝しています。

夢だった自動車メーカーへ

2011年02月23日 08:00

縁あって鈴木自動車工業株式会社(現在のスズキ株式会社)に入社し、たくさんのデザインテーマとめぐり合い、幸せなデザイナー人生をスタートさせました。
皆さんがご存知の商品では「ハスラー2型」の400と250でしょうか?そのほか船外機、スノーモービルなど、文字通り動くもののデザインに携われたことは本当に幸せでした。48PRODUCTの原点はこれですね!

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商品開発のイロハ
3年目で東京研究所に移動してからというものは、ロータリーエンジンの応用機器開発など、商品企画とコンセプトデザイン三昧。商品企画の手順を厳しく鍛えられました。今は鬼籍に入られました鬼所長(笑)が率いる四十七士です。当時、排ガス対策で財務状況が逼迫していた鈴木は、金食い虫の研究所を閉鎖することになります。やっぱり討ち死にすることになるんですね(苦笑)。現オサム社長の一代前の社長の時代です。鈴木がダイハツから4サイクルエンジンを買って、自社の軽自動車に乗せなければ売る車が無かったという、最悪の時代でしいた。

ライバルのホンダに行く人、機械、家電メーカー、大学の研究職へ赴く人、もちろん鈴木に戻る人、さまざまでした。結局、僕は本社に戻り、たまたま手薄だった船外機の基本デザインを整え退職することになります。これはなかなか良い出来栄えだったと自負(笑)。

しかし、悪いことばかりではなく、研究所は僕にとって、商品開発のコンサルテーションをさせていただく、考え方の基盤を学ばせてくれた時代で、そのことに恩義を感じています。商品開発とデザインを一体で見ることができるようになったことが最大の収穫でした。

デザインの感性と商品開発の論理を、矛盾することなく整理し、2000年に「3×4にプログラム」を発表できた原点がここにあります。

そのときに出会ったのが「生きのびるためのデザイン」です。これは衝撃的で、それまで考えていたデザイナーのあるべき姿を一気に「転換。・膨張」させてくれました。「3×4デザインプログラムは手法のフレームワークですが、「生きのびる・・・」は、それを支える理念だと、心に刻み込みました。後世に残る名著です。デザイナーだけではなく、ビジネスパーソンには、これからの経済のあり方を示してくれます、是非ご一読をお勧めします。

「有以利為 無以用為」老子 見えるものを動かしている見えないものを見る力 
これらを感じたら、あれほど、車が好き、バイクが好き、恋焦がれて鈴木に入り幸せなデザイナー人生を歩んでいたはずなのに、研究所で商品開発全体に触れて以来、浜松にいることがむなしくなり、縁あって東京へ戻ることになったのです。一旦クルマ生活から離れる次代に入ります。



つづく

ハロー!インダストリアルデザイン

2011年02月22日 08:00

デザイナーになりたくて上京
中学校の制服を身にまとい、集団就職列車に乗った仲間たちを、長岡駅のホームで見送った後、僕はデザイナーになりたくて、東京の高校に入学するために、一人別の列車に乗って上京しました。

東芝製のEF58が牽引する列車はこげ茶色の?等車です。緑色のビロード時の座席の硬さと、残雪が残るループ式の清水峠越えも、多少の感傷と希望が入り混じった感覚も、まだ鮮明に覚えています。それ以来、日藝を卒業するまで世田谷区の上北沢に住んでいました。

僕が高校に通いながら、せっせと学芸大駅商店街にあるデザイン予備校(東横美術なんてまだあるかな?)で、石膏デザインに勤しんでいたころです。
朝早く起きて家を出ると、近所に住んでいた巨人軍の長嶋選手が、日大の文理学部のグランドまでランニングする姿に会えるというご利益もありました。「おはようございます」と言えば、「オッ、オハョッ」と、例の高いトーンの声で、軽く手を上げて気楽に返事を返してくれた白いジャージ姿が眼に焼き付いています。まさしく昭和のど真ん中で暮らしていました。

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そんなこともあって、僕の自宅のガレージは、この時代に近所で見かけた「世田谷モータース」がモデル

ハロー!インダストリアルデザイン
車がすき!
電車がすき!
バイクがすき!
飛行機がすき!
船がすき!
ブルドーザーがすき!
エンジンが付いて動くものがぜーんぶすき!・・・。

それを構成しているネジからカムからギヤなど部品が好きで、それを上手くまとめて機能させカバーする。そんなモノがたまらなく愛しくて、製品丸ごと関われるのが「インダストリアルデザイン」と知ってから、ふとんの中でまんじりとも出来なかった夜がありました。

TOKYO OLYMPICS, 1964 (REBUILDING JAPAN)
Photo by Michael Francis McCarthy

この国が、工業立国にならんとし良質な労働者と技術者を欲していて、将来の発展を誰一人疑っていなかった幸福な時代でした。

つづく