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全てが新しく始まる転機

2011年03月07日 20:05

その頃からですね。デザインマネージメントが僕の研究テーマになり、企業を“デザインで元気にする”のがクルーの仕事になりました!
どんなに力のあるデザイナーでも、自分の人生を左右するほどのテーマに出会えるとは限りません。本当に僕にとっては大原鉄工所さんと出会いは幸せでした。今でも感謝しています。

デザイナーズナイトの思い出
大原さんの仕事をやっていた80年代後半は、まだバブル経済の時代で、AXISはじめ、さまざまなところでデザインに関する発表会やイベントが多く開催されていました。毎週何がしかのパーティーが開催され、たくさんのご招待を頂きました。当然仕事は忙しいのですが、仕事を途中で一旦中断し、会場に出かけたものです。

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特に東京モーターショーの前夜に開かれる「デザイナーズナイト」は、熱く燃えていて、世界中のカーデザイナーたちが、出会いを楽しんでいました。ガンディーニさんとジウジアーロさんやスズキのKATNNAのデザインをお願いしたムートさんとの出会いも良い思い出です。モーターショーも寂しくなりましたね・・・。


経験が生きる

2011年03月07日 08:00

運命的な仕事
理化学機器や医療機器メーカーなどと、年間契約の仕事が複数社入るとスタッフも増え、事務所を中央区八丁堀に移転。更にマンションから隣の新築ビルに移動へと、この頃からようやく、インダストリアルデザイン会社らしくなります。

理化学機器のデザインでは10年連続36機種のGマークを受賞するなど、毎年グッドデザイン賞を頂くようになり、Gマーク取得の常連デザイン会社になるんですね。

縁あって故郷の長岡にある大原鉄工所さんのゲレンデ整備者をデザインしたのは1990年で、中小企業庁長官特別賞を頂きました。これは今に至るクルーの仕事の根幹をつくる運命的な仕事となったんです。

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もうひとつの運命的なことは、クルーのデザイン現場で頑張っている山崎君(48PRODUCTでは通称Yamaさん)との出会いです。これは、スズキの125ccバイクをベースに、韓国市場に向けて全面モデルチェンジをする仕事が取り持つ縁でした。H社にいた友人の紹介で、自分の教え子にバイク好きの学生がいるということで、クレーモデル制作アルバイトで来てもらったのです。その後、紆余曲折がありましたが現在に至っています。

125ccエンジンに400ccの外装を!
また、このバイクデザインは、なんとも珍奇なオーダーでした。当時韓国市場の購買力は脆弱で、125cc以上のバイクは憧れの的だったんです。(国策で大型バイクは輸入禁止)市場調査で現地に行って驚きました。バイクの後ろにプロパンガスボンベを3本積み、フロントがウイリー状態で走っていたり、ライダーが隠れて見えないほど巨大な荷物を積むなど、そんな光景は当たり前!休日にはそれがデートバイクになるという。かつて日本もそんな時代がありました。
要望どおりにスケッチ展開し大好評。そのままクレーに仕上げると、大迫力の400ccバイクの出来上がり!ただし、何か変?それはそうでしょう!(爆笑)エンジンが125ccなんだもの。

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韓国企業さんも気がついたらしく、「OKわかりました。250ccクラスにボリュームダウンしてください」とのこと、それでも変!と思ったのですが、仰せのとおりで商品化。好評だったようです。

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クルーの仕事振りの骨格が出来た
大畑鉄工所さんの仕事は当初、スケッチを数枚描いて欲しいとの依頼だったのですが、結果的には3年半を費やす大仕事。モノづくり、人づくり、企業づくりという大きな3つのテーマに、プロジェクトを組んで挑んだのです。楽しかったですね!

車両デザインもさることながら、開発システムの整備、プロジェクトマネージメント、FRP工場の立ち上げ、試験走行、開発内覧会と発表会のプロデュース・・・。などなど、どれもこれも初めての経験で刺激的でした。

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雪がない時期の走行テストは海岸で。擬装までして本格的に。


何故出来たのでしょうか?次から次へと発生する未経験の難問を解決できたのは、鈴木自動車の研究所でやった新商品開発手法と、販促企画会社での売るためのデザイン経験が生きたのでした。まるでこの仕事のために準備をしてきたんだ!と実感しました。

仕上げはアクシスでの発表会。講演会は僕の尊敬する師匠であるAXIS編集長の林英次さん、大原鉄工所の常務(現社長)さん、そして私の3人で行い、アクシス始まって以来の入りだったとか?
友人の牧さん(カーデザイナーのガンディーニ氏マネージャー)が、「こんな丁寧な仕事はイタリア人は絶対やらない!すごい!」と妙なお褒めの言葉。ありがたかったです。

この仕事はさまざまな媒体から取材を受け、自社でもセミナー用に「ディアロード物語」としてまとめました。興味のある方はご一報下さい。差し上げます。

そして独立へ

2011年03月04日 08:00

阿吽の退職
会社の廊下ですれ違いざま次期社長候補から「馬場ちゃん、そろそろどうかな?」と言われ、「そうだね、辞めますか」と返事をしたのが退職の宣言。さっぱりしたものです。阿吽の呼吸と言うのでしょうか(苦笑)。
その役員と経営の方針でそりが合わなくなっていて、ちょうど交通事故で3ヶ月休んだのがいいきっかけになり3年で退職。何の準備もしないままです。退職した翌日は上天気。何か心に沸き起こるかと自分の心に尋ねてみたのですが、いつもの朝と変わらない(笑)。高邁な志など無い人生の再スタートでした。

でも、何か変えるために何かしないと!と思い、決心したのが家を建てることでした。交通事故の後始末と家の新築。そして職安通い。いったい何やってんでしょうね(苦笑)。若かったからでしょうね。そんな訳で僕のサラリーマン人生は9年で終わりました。

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ドタバタフリーランス
職安通いを2ヶ月でやめてフリーランス宣言!といってもクライアントなんてなく、早く言えばフリーターですね。食いつなげたのは、辞めた会社のスタッフでは手に負えない仕事でした。後は退職を聞きつけた取引先からの依頼。うれしかった!ですね・・・。
この頃は何でもやりました。学習誌の科学教材、運動遊具、電子ゲーム機、玩具、テニスラケット、ヘルメット、農業機械・・・。結構、何でも出来るもんだ!これがこの時代の実感でしたね。仕事も回ってきて何とか格好が付くようになり、会社組織にして、自宅オフィスをたたみ日本橋の小さな事務所を開業したのは今から30年前で32歳の頃でした。

それから時は過ぎ、一時は、なんと!ショッピングモールの販売促進企画も!イベント屋さんまでやる始末です。若手漫才師と学生プロレスを組ませて、本物のリングで対決させる。○川興行などの路上パフォーマンス。結構自分自身にこんなセンスがあるとは思っていませんでしたね(笑)。紅白に出場するアイドル歌手と契約して昼夜2回興行。手違いで昼夜同じ弁当を出して、怖いプロモーターから「うちのアーティストの体を壊す気か!夜のステージは中止だ!」と恫喝されたのはヤバかったです。はい。

はらはらドキドキのモノづくり
ゲーム機器の開発に没頭していたときがあり、この頃は本気で開発と生産を行うメーカーになろうと考えていました。
3D(擬似立体)ゲーム機の生産をアメリカのトイメーカーから25万台受託!15万台くらい成型すると、インジェクションの金型のひびを発見。

冷や汗が出ました。「あーいったいいくらの違約金を取られるんだろう・・」 

素人判断ですが「たが」を嵌めて急遽補強。何とか騙し騙し成型。おかげで生産が落ち飛行機の輸送費が発生。それを避けるために24時間生産を依頼。そのために長野と新潟の工場を、週2回車で行ったりきたりしてフル稼働体制の“見張り番兼ご機嫌伺い慰労役”です。綱渡りのハードな1年を過ごしました。大金が動きましたが手元に残ったお金は僅か。でも、材料屋さんと契約工場には、たっぷり利益を残しました(笑)。いい経験でしたね!

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半年後、ニューヨーク5番街のシュワルツという大きな玩具屋さんで、その商品を見たときには大感激!思わず涙がこぼれました。手元に一台残っているのはそのとき買ってきたものです。

つづく

僕のクルマ履歴 3

2011年03月03日 08:00

ふたりだけのクーペに一人だけ
スズキに入って最初に買ったのがフロンテクーペGXで、発売当時は二人だけのクーペと言うキャッチコピーで市場デビューしました。それにしばらくは一人だけで乗っていました(苦笑)。

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当時の写真

これはイタルデザインを主催するジョルジェット・ジウジアーロさんのデザインが原形ですが、Nさんという有能な社内デザイナーが大幅にリファインしたもので、原形をとどめない仕業にジウジアーロさんが激怒した?という逸話がまことしやかに残っていますが、今になっては知る由もありません。
小さいけれど、とにかくよく走る大好きなクルマでした。当時はクレジット(信用保証制度)が未発達で、個人がクルマ売買の○専手形を振り出し、月賦で購入するのが普通でした。余談ですが鈴木のお膝元である静岡が最もスズキ車の価格が高いのです!理由はそのうちに・・・。

バイブルはカーグラフィック
結婚しJrが誕生すると、二人だけのクーペではなんとも手狭になり、次に購入したのが日産のチェリークーペ X-1です。マイナーなクルマでしたが、当時のスズキの給料で手に入れることができるベストな選択だと思いました。

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当時の写真

登載されていたエンジンはA12型1200ccのOHV。それにSUのツインキャブでパワーアップし、クラッチミートが結構デリケートなクルマでした。今、乗っている“かに目”(オースチンヒーレー)のエンジンをお手本にしたものです。OHVとは思えないほど良く回る素晴らしいエンジンでした。

CG(カーグラフィック)編集長の小林章太郎さん曰く・・・
“日本の国が全て直線道路であるならば、僕は躊躇することなくチェリーの購入を勧めするであろう”

当時は、さすが小林さん!凄い眼力、名言、と思っていましたが、今にして思えば、迷言なのか、皮肉なのか、どうだったのでしょうか(苦笑)。当時のCGはクルマ乗りのバイブルであり、氏の論評は天の評価でした。

今、僕のガレージの書架には、山梨大学の I 教授から寄贈された'70年(大阪万博、僕がデザイナーになった年)から'85年までのCGが収められています。モーターファンのカースタイリングは創刊号から並んでいて、ページをめくると一気に、デザイナー人生のスタート時代にワープするのです。

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キャラバン全損!そして独立
子どもたちが育ってくると、アウトドアを楽しみたくなり、購入したのが、当時としては冒険的な選択で日産キャラバンです。商用車ですよ!これをベースに、当時は高額だったキャンピングカーを作る決意をしました。とりあえず床をフラットにして・・・始めたのはいいけれど、仕事が忙しくてなかなかはかどらず・・・。

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そのうち人生最大の失敗をします。な、なんと!一家に妻の母を加えた5人で楽しい日光観光の帰りのことです。東北高速道路は久喜付近で、大型タンクローリーに割り込まれキャラバンが横転!全員救急車で久喜の新井病院に入院。今でも思い出すと辛くほろ苦い思い出です。
これが理由ではないのですが、タイミング的に販売促進の会社を辞めることになったわけです。さあ、これでメーンストーリーの「何故デザイナーになったの?」に、サブストーリーがようやく追いつきました。

又この続きは、メーンストーリーが現在に至ったら、クルマ話の続きをお話します。次は、僕が独立した後のデザイナー人生の話に戻します。

僕のクルマ履歴 2

2011年03月02日 08:00

楽しさは510で知った
特に思い出深くクルマの楽しさを教えてくれたのが、2番目の兄が所有していたブルーバード510に、ラリー用のスポーツキット組み込んだ1600SSSです。長岡に帰省すると、近くの山中をラリーもどきに走り遊んでいました。

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当時の写真です!

白いボディーにボンネットを艶消しのブラックにして、ダッシュボードには、あの!ハルダのスピードパイロットとツインマスターを装着。当時流行ったサファリホーンを「タリラ タリラ♪」と品よく鳴らしながら、「栄光への5000キロ」(石原裕次郎が510を駆ってサファリラリーに挑む映画)を気取るのです。

長野は美ヶ原の林道まで遠征して、猛スピード(本人はそのつもり)で駆け抜ける。今の妻がパッセンジャーシートに必死に、しかも無言でしがみついていました(苦笑)。多少ラリーにも参加してクルマの面白さ覚え始めた頃でした。
ポルシェタイプと言われるミッションの感触は“油壺の中で棒をこねる様な・・・”と形容されていて、ポルシェなんて全然知らないけれど、グニュグニュ感の否めない感覚も、また好ましくて、ロールしながら粘る足回りもいい感じでした。

気軽に楽しめた車の運動会
後はジムカーナで遊ぶのが当時の流行でしたね。兄弟そろって苗場スキー場の駐車場でジムカーナ。ノーマル車で!ですよ。もちろんタイヤもバイアス。そのうちラジアルなんて言うレース向きのタイヤがあるようだ?なんていって、手に入れたのが扁平率82%のご存知ヨコハマGTスペシャル!これでジムカーナに出ると優勝!痛快な出来事でした。
姉の嫁ぎ先の板金屋さんが主催するレーシングチームは、ジムカーナの常勝チームで、そのうち日本海間瀬サーキットができるとレースに参加。あの星野さんもフェアレディーで参戦!逆バンクの最終コーナーを指して「イヤーこのコースは厳しい!」地元チームとしては一矢報いた場面もありました。最後はサニーを駆って、従兄弟がマカオデビューするという快挙です!この頃は今よりクルマ遊びが身近で、本当に良き時代でした。

諸兄!もっと気軽にクルマで遊びませんか?!まずはさくらモーニングクルーズにご参加を!(笑)

つづく