2011年03月03日 08:00
ふたりだけのクーペに一人だけ
スズキに入って最初に買ったのがフロンテクーペGXで、発売当時は二人だけのクーペと言うキャッチコピーで市場デビューしました。それにしばらくは一人だけで乗っていました(苦笑)。

当時の写真
これはイタルデザインを主催するジョルジェット・ジウジアーロさんのデザインが原形ですが、Nさんという有能な社内デザイナーが大幅にリファインしたもので、原形をとどめない仕業にジウジアーロさんが激怒した?という逸話がまことしやかに残っていますが、今になっては知る由もありません。
小さいけれど、とにかくよく走る大好きなクルマでした。当時はクレジット(信用保証制度)が未発達で、個人がクルマ売買の○専手形を振り出し、月賦で購入するのが普通でした。余談ですが鈴木のお膝元である静岡が最もスズキ車の価格が高いのです!理由はそのうちに・・・。
バイブルはカーグラフィック
結婚しJrが誕生すると、二人だけのクーペではなんとも手狭になり、次に購入したのが日産のチェリークーペ X-1です。マイナーなクルマでしたが、当時のスズキの給料で手に入れることができるベストな選択だと思いました。

当時の写真
登載されていたエンジンはA12型1200ccのOHV。それにSUのツインキャブでパワーアップし、クラッチミートが結構デリケートなクルマでした。今、乗っている“かに目”(オースチンヒーレー)のエンジンをお手本にしたものです。OHVとは思えないほど良く回る素晴らしいエンジンでした。
CG(カーグラフィック)編集長の小林章太郎さん曰く・・・
“日本の国が全て直線道路であるならば、僕は躊躇することなくチェリーの購入を勧めするであろう”
当時は、さすが小林さん!凄い眼力、名言、と思っていましたが、今にして思えば、迷言なのか、皮肉なのか、どうだったのでしょうか(苦笑)。当時のCGはクルマ乗りのバイブルであり、氏の論評は天の評価でした。
今、僕のガレージの書架には、山梨大学の I 教授から寄贈された'70年(大阪万博、僕がデザイナーになった年)から'85年までのCGが収められています。モーターファンのカースタイリングは創刊号から並んでいて、ページをめくると一気に、デザイナー人生のスタート時代にワープするのです。

キャラバン全損!そして独立
子どもたちが育ってくると、アウトドアを楽しみたくなり、購入したのが、当時としては冒険的な選択で日産キャラバンです。商用車ですよ!これをベースに、当時は高額だったキャンピングカーを作る決意をしました。とりあえず床をフラットにして・・・始めたのはいいけれど、仕事が忙しくてなかなかはかどらず・・・。

そのうち人生最大の失敗をします。な、なんと!一家に妻の母を加えた5人で楽しい日光観光の帰りのことです。東北高速道路は久喜付近で、大型タンクローリーに割り込まれキャラバンが横転!全員救急車で久喜の新井病院に入院。今でも思い出すと辛くほろ苦い思い出です。
これが理由ではないのですが、タイミング的に販売促進の会社を辞めることになったわけです。さあ、これでメーンストーリーの「何故デザイナーになったの?」に、サブストーリーがようやく追いつきました。
又この続きは、メーンストーリーが現在に至ったら、クルマ話の続きをお話します。次は、僕が独立した後のデザイナー人生の話に戻します。
スズキに入って最初に買ったのがフロンテクーペGXで、発売当時は二人だけのクーペと言うキャッチコピーで市場デビューしました。それにしばらくは一人だけで乗っていました(苦笑)。

当時の写真
これはイタルデザインを主催するジョルジェット・ジウジアーロさんのデザインが原形ですが、Nさんという有能な社内デザイナーが大幅にリファインしたもので、原形をとどめない仕業にジウジアーロさんが激怒した?という逸話がまことしやかに残っていますが、今になっては知る由もありません。
小さいけれど、とにかくよく走る大好きなクルマでした。当時はクレジット(信用保証制度)が未発達で、個人がクルマ売買の○専手形を振り出し、月賦で購入するのが普通でした。余談ですが鈴木のお膝元である静岡が最もスズキ車の価格が高いのです!理由はそのうちに・・・。
バイブルはカーグラフィック
結婚しJrが誕生すると、二人だけのクーペではなんとも手狭になり、次に購入したのが日産のチェリークーペ X-1です。マイナーなクルマでしたが、当時のスズキの給料で手に入れることができるベストな選択だと思いました。

当時の写真
登載されていたエンジンはA12型1200ccのOHV。それにSUのツインキャブでパワーアップし、クラッチミートが結構デリケートなクルマでした。今、乗っている“かに目”(オースチンヒーレー)のエンジンをお手本にしたものです。OHVとは思えないほど良く回る素晴らしいエンジンでした。
CG(カーグラフィック)編集長の小林章太郎さん曰く・・・
“日本の国が全て直線道路であるならば、僕は躊躇することなくチェリーの購入を勧めするであろう”
当時は、さすが小林さん!凄い眼力、名言、と思っていましたが、今にして思えば、迷言なのか、皮肉なのか、どうだったのでしょうか(苦笑)。当時のCGはクルマ乗りのバイブルであり、氏の論評は天の評価でした。
今、僕のガレージの書架には、山梨大学の I 教授から寄贈された'70年(大阪万博、僕がデザイナーになった年)から'85年までのCGが収められています。モーターファンのカースタイリングは創刊号から並んでいて、ページをめくると一気に、デザイナー人生のスタート時代にワープするのです。

キャラバン全損!そして独立
子どもたちが育ってくると、アウトドアを楽しみたくなり、購入したのが、当時としては冒険的な選択で日産キャラバンです。商用車ですよ!これをベースに、当時は高額だったキャンピングカーを作る決意をしました。とりあえず床をフラットにして・・・始めたのはいいけれど、仕事が忙しくてなかなかはかどらず・・・。

そのうち人生最大の失敗をします。な、なんと!一家に妻の母を加えた5人で楽しい日光観光の帰りのことです。東北高速道路は久喜付近で、大型タンクローリーに割り込まれキャラバンが横転!全員救急車で久喜の新井病院に入院。今でも思い出すと辛くほろ苦い思い出です。
これが理由ではないのですが、タイミング的に販売促進の会社を辞めることになったわけです。さあ、これでメーンストーリーの「何故デザイナーになったの?」に、サブストーリーがようやく追いつきました。
又この続きは、メーンストーリーが現在に至ったら、クルマ話の続きをお話します。次は、僕が独立した後のデザイナー人生の話に戻します。
スポンサーサイト
最新コメント